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27 . April
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06 . September


アメリカ代表として五輪金メダル2回、ファイナルMVP2回、オールスターMVP2回、WNBA史上初のダンクシュートを記録、、、リサ・レスリーの活躍ぶりを形容する言葉には限りがないように感じられる。2003年は、オールスターゲームで怪我をしたのが響いたのか、チームの3連覇は逃したが、個人成績では3度目のシーズン・ダブルダブルを記録するなど、ますます円熟味の感じられるシーズンであった。


リサ・レスリーを語るとき、その母親クリスティンに触れないわけにはいかない。リサが2歳のとき、父親は蒸発した。クリスティンは幼い二人の子どもを育てるため、郵便配達夫として働いていたが、リサが9歳のとき、全米を渡り歩くトラック運転手の職についた。収入はよかったが、当然家を空けることがおおくなり、リサと妹のティファニーはおばの家に預けられた。リサは毎晩ベッドで母の写真を見ながら、寂しくて泣いていたという。リサにはもうひとつコンプレックスがあった。中学に上がる頃、リサは既に180cmを超える長身になり、級友から「オリーヴ・オイル(ポパイの恋人)」とからかわれて悩んでいたのだ。しかし、クリスティンはリサに自分に誇りを持つように話した。クリスティン自身も190cmの長身だったので、リサの気持ちがよく理解できた。クリスティンは娘たちに、姿勢やエチケットのレッスンを受けさせ、自分自身に自信を持ち、胸をはって生きて行くことを教え込んだのである。

背が高いリサはバスケット選手になると周囲は思っていたが、リサ自身はスポーツに興味を示さなかった。中学で友人がバスケットチームのキャプテンになったことから、初めていっしょにプレーすることになった。プレーを始めると、たちまちリサはその才能を開花させ、モーニングサイド高校の花形選手となった。前半だけで101得点を挙げ、相手チームのコーチが起こって試合を放棄した事件は伝説となっている。90年には全米最優秀ハイスクールプレーヤーとなり、どこの大学にも進める選手となった。家族を大事にするリサは地元のUSC(南カリフォルニア大)に進み、94年に全米最優秀カレッジプレーヤーに選ばれるほどに成長した。

大学卒業後、イタリアで1年プレーしたリサは、96年のアトランタ五輪に向けたアメリカ代表チームに選抜された。このチームは世界各国を転戦し、60戦全勝という偉業をなし遂げ、五輪でも金メダルを獲得した。これがきっかけで女子バスケットの人気に火がつき、WNBAの発足につながったのである。オフシーズンにはモデルとしても活躍し、全米の少女たちの憧れの的であるリサの試合には、いつもクリスティンの姿がある。クリスティンが見守り続ける限り、リサはその全力をコートの上で発揮し続けるに違いない。

(Last Update 2004/1/26)
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