2003年6月27日、MSGでのショック戦の第1クォーターに途中出場したベッキー・ハモンは、その直後に他の選手と接触して靭帯を切ってしまい、残りのシーズンは絶望となった。この試合まで、ベンチスタートでありながら、ベッキーはチームトップの平均得点を挙げるなど、リバティに欠かせない戦力であった。そのベッキーを失ったリバティは、チームの歴史で初めてプレイオフ進出を逃してしまったのであった。
ベッキー・ハモンはサウスダコタ州に生まれ育った。わずか3歳でボール遊びを始め、自宅のゴールで姉や兄を相手にプレーした。背の低かったベッキーは、姉や兄にブロックされないように、フェイクを多用してディフェンスのバランスを崩すことを身につけていった。ハイスクールで州の最優秀選手に選ばれたベッキーであったが、サウスダコタという地方だったゆえに、カレッジからのリクルートはわずかしか舞い込まなかった。力を試す必要があると感じたベッキーがインディアナで行われたバスケットキャンプに参加すると、サウスダコタから突然現れたシャープシューターに数多くの大学から奨学金のオファーが寄せられた。ベッキーはその中から、自分にチームカラーが一番合っていると感じたコロラド州立大学に進学した。
コロラド州立大学は、それほど強豪チームではなかったが、ベッキーはそれを一変させた。1年生のときに、同大を初のNCAAトーナメントに出場させると、いきなり1回戦を突破、また4年生のときには、スウィート16にチームを導いたのである。オールアメリカンにも選ばれたベッキーであったが、99年のWNBAドラフトでは、ABL消滅によって選手層が厚かったこともあり、どこからも指名を受けなかった。その代わりに、WNBAとフリーエージェントとして契約し、リバティに所属することとなった。サウスダコタのハイスクール時代に、トーナメントのためにやってきたMSGで記念撮影をしていたベッキーは、自分がプロとしてMSGでファンの声援を受けることになるとは夢にも思わなかったという。リバティが栄光を取り戻すためには、ベッキーの復活が絶対に必要なのである。
(Last Update 2004/1/27)
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