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19 . March
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06 . September


WNBAの2003年シーズン最大の驚きは、前年リーグ最低の成績だったデトロイト・ショックが一躍リーグ最高勝率を挙げ、プレイオフでも一気に王座へ駆け上がったことであった。解散したマイアミ・ソルから移籍してきたセンターのルース・ライリー、新人王に輝いたカール・マローンの娘であるシェリル・フォードなど新メンバーの活躍も大きかったが、ヘッドコーチのビル・レインビアも認める若きショックの大黒柱は2年目を迎えたスウィン・キャッシュであった。レインビアはキャッシュのことを「スモールフォワードの未来形」と表現する。長い手足を生かした動きは優雅そのもので、安定したオフェンス力を誇っている。


スウィン・キャッシュは当時高校の花形プレーヤーだったシンシアの娘として生まれた。シンシアはスウィンを育てるために自分のプレーをあきらめ、いくつもの仕事を掛け持ちして働いた。シンシアはスウィンがわずか4歳のときにバスケットを教え始め、7歳のときには地元ペンシルベニア州マッキーズポートのプレイグラウンドで男の子に混じってプレーを始めた。11歳になると、シンシアがコーチを務める地元のチームで活躍した。中学まではバスケットの他に、ベースボール、体操、チアリーディングをプレーしていたが、背がみるみる高くなるにつれ、高校に入るころにはバスケットボールに専念するようになった。スウィンは母親と同じ高校でシンシアがつけていた32番をつけてプレーした。そしてスウィンはシンシアが成し遂げられなかった夢、大学への奨学金を勝ち取ったのである。

スウィンのカレッジでのキャリアは栄光に満ちたものであった。1年目こそ怪我で満足にプレーできなかったものの、2回の全米制覇、4年時には39戦全勝でシーズンを終え、ファイナルフォーの最優秀選手にも選ばれた。そして迎えたWNBAドラフトで、スウィンはカレッジでのチームメイトだったスー・バードに続いて全体2番目でデトロイト・ショックに指名されたのである。しかし、スウィンのWNBAでのスタートは惨めなものであった。ショックは開幕から13連敗を重ねた。これはコネチカット大学での4年間の負け数よりも多かった。結局ショックは9勝23敗でリーグ最下位に終わった。しかしここから、ショックはコーチ・レインビアのもと、シンデレラチームへの道を歩むこととなった。2003年にはスウィンを始めショックから3人がオールスターに選ばれた。若いチームについた勢いは止まらず、ファイナルではディフェンディング・チャンピオンのロサンゼルス・スパークスを見事に破って、WNBAの歴史に残る劇的なターンアラウンドを成功させたのであった。今後もスウィンのキャリアは数々の栄光で彩られることであろう。

(Last Update 2004/1/6)
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