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19 . March
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06 . September


2000年のシドニー五輪。金メダルを獲得したアメリカチームのデリーシャ・ミルトンは、チームメイトであるヨランダ・グリフィスを畏敬の念を持って見ていた。「ヨランダはスーパー・ママよ。ここに来るまで、どれだけの苦難と戦ってきたことか。彼女は母親としても金メダリストよ」とミルトンは言う。そのヨランダが歩んできた人生とは、、、


ヨランダ・グリフィスはシカゴで生まれ育ち、高校ではオールアメリカンに選ばれるなど、将来を嘱望されたセンターであった。NCAAの強豪アイオワ大学に進んだヨランダは、1年目は学業に専念するためプレーできなかったが、素晴らしいコーチであるヴィヴィアン・ストリンガーのもと、彼女の未来には一点の曇りも見えなかった。ところがそんな彼女は、19歳の時に妊娠してしまう。突然人生の岐路に立たされたヨランダは出産を決意する。しかし、彼女はバスケットをあきらめはしなかった。アイオワ大を退学し、生計を立てるために、さまざまな職につきながら、ヨランダはジュニア・カレッジでプレーを続けた。特に印象に残っている仕事は自動車ローンの債権回収だという。ジュニア・カレッジで全米最優秀選手となったヨランダは、フロリダ・アトランティック大に転校し、たちまち得点・リバウンドのシーズン記録を更新、ディビジョン2の全米最優秀選手に選出される。大学を出たヨランダはドイツのプロリーグからオファーを受け、娘とともにヨーロッパへ渡った。5年間に渡るユーロリーグでの活躍の後、WNBAと同時期に発足したABLに参加するため、97年にヨランダは再び母国に帰ってきた。

ABLでは生まれ故郷のシカゴでプレーできたヨランダだったが、ABLは経営難からわずか2年で消滅してしまう。プレーする場を失ったABLの選手は、99年のWNBAドラフトで指名されることとなり、ヨランダはABL選手としては最初(全体2位)にサクラメント・モナークスに指名された。ヨランダは1年目から18.8得点、11.3リバウンドとその実力を遺憾なく発揮し、いきなりMVP、最優秀ディフェンス賞、オールスターなど多くの栄誉に輝いた。そしてそのキャリアを一層輝かしいものとしたのが、シドニー五輪のアメリカ代表チーム入りであった。いまでは14歳になった娘は、毎試合ヨランダに声援を送り続けている。娘と固い絆で結ばれたママさん金メダリスト、ヨランダ・グリフィスは全米のシングルマザーの英雄なのである。

(Last Update 2004/1/14)
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