2003年、インディアナ・フィーバーは惜しくもプレイオフ進出を逃した。そのフィーバーをほぼ独力で牽引したのがタミカ・キャチングスであった。キャチングスのあらゆる面での活躍は目ざましく、MVPの投票でも受賞者のローレン・ジャクソンに次いで2位にランクされたほどであった。名門テネシー大からWNBAのスターへと駆け上がったタミカは、毎年進化を続けており、いつの日かチームを王座に導くだろう。
タミカはバスケット選手になる運命を持って生まれてきた。父親のハーベイ・キャチングスはNBAプレーヤーであり、タミカと姉のタージャはいつも父親の試合を見に行った。ハーベイは二人の娘のヒーローであった。友人達はマイケル・ジョーダンのようになりたいと思っていたが、タミカは父のようになりたいと思っていた。タミカとタージャは、タミカが3年生のときに父がコーチをするチームでプレーを始めた。二人はお互いに負けず嫌いで、血が出るほどの激しいワン・オン・ワンをするので、ハーベイは二人がマッチアップするのを禁止したほどであった。
タミカは生まれつきの難聴で、自分の声すら聞き取れないほどであった。小さい頃は補聴器をつけていたが、友達にからかわれてつけるのをやめてしまった。これがタミカを内向的な性格にしてしまった原因であった。さらに中学のとき、両親が離婚、タミカは母親とテキサスに移り住んだ。しかし、タミカは全米屈指のハイスクール・プレーヤーとして頭角を表し、女子バスケの名門中の名門テネシー大へ進学した。
テネシー大ではシャミーク・ホールズクローとコンビを組み、1、2年時に全米制覇を成し遂げた。タミカのキャリアは絶頂に達していたが、満を持して迎えた4年生のシーズンのNCAAトーナメント直前に膝を故障し、最後のトーナメントを棒に振ってしまった。膝のリハビリのため、丸1シーズンプレーできないことがわかっていたが、それでもインディアナ・フィーバーが2001年のWNBAドラフトで全体3位でタミカを指名した。タミカは新しいホームのインディアナでリハビリに専念し、コートに戻るやいなや、フィーバーのベストプレーヤーとして大活躍した。そして、オールスター、オールWNBAファーストチームに選ばれ、2002年のWNBA新人王に選出されたのである。自分のキャリアが終わったとき、「タミカ・キャチングスは毎年進化したプレーヤーだった」と評価されたいというタミカ。フィーバーがプレーオフ常連となる日も遠くないであろう。
(Last Update 2004/1/6)
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